プロレスごっこと野球部のレギュラー確保に明け暮れた少年時代と、プロレスラーとして揉まれ成長した全日本プロレス時代とプロレスリング・ノア時代。
KENTAの基盤を作り、頂点に目指した栄光の日々は、何度か大怪我をしつつも順風満帆な時代だったと言えるでしょう。
一方で世界に憧れWWE入りした何年間は暗黒時代と言えるのかもしれません。
知っているようで知らなかったKENTAの苦悩は、自伝『足跡』を読まなければ一生知ることはなかったプロレスラーKENTAの真実です。
前回の自伝紹介に続き、今回は紹介後篇になります。
WWE時代の葛藤と怪我
2014年7月にWWEと契約したKENTA。
おかしなリングネームを付けられそうになるも、なんとか回避したKENTAはトリプルHが気に入っていた『痛み』という日本語と、自ら提案した『英雄(HERO)』を組み合わせて、イタミ・ヒデオが誕生しました。
KENTAのWWEの有名なエピソードと言えば、KENTAの代名詞「go 2 sleep」が使えなかったことと左肩の怪我。
漠然とした情報は知っていましたが、真実はもっと残酷でした。
NOAH時代のKENTAのフィニッシュホールドは『ブザイクへの膝蹴り』『GAME OVER』『go 2 sleep』の3つ。
go 2 sleepはCMパンクの技GTSを彷彿とさせるから使えず、ブザイクへよ膝蹴りとGAME OVERもブライアン・ダニエルソンと同じ技ということで使うことが禁止されていました。
つまり、KENTAがこれまで栄光を掴んできた技は使えず、どうやって相手を倒したら良いか常に模索しながら闘ったといいます。
真面目過ぎたKENTAは日々変わる会社の指示に答えようと、悩み、葛藤し、迷いながらいつしかネガティヴ思考になってしまったと言います。
それでも少しずつチャンスも得て希望を膨らんできた頃に起きてしまった左肩の脱臼。
怪我した直後の手術と、10ヶ月後に再手術をするも肩の可動域は一向に良くならなかったと書かれています。
再脱臼しない肩になったという意味では成功とも言える手術ですが、アメリカではなく日本で手術できなかったことを今でも後悔していると語りました。
先が見えないリハビリ生活が続き、『これ以上欠場させられない』という理由で復帰。
半年以上も肩の状態が変わらないまま、1年2ヶ月リハビリ生活を続けたと言います。
肩の脱臼が想像以上の大怪我だということ、そしてリハビリが長ければ治るというものではない怪我だということを知りました。
もし、日本で手術していれば状況は変わっていたかもしれませんし、リハビリする環境が違ければ、肩の状態も今より良くなっていたかもしれません。
『対世界』への挑戦を諦めきれず選んだ新日本プロレス
NOAHへの恩返しをしたい気持ちはあったものの、批判覚悟で選んだ新日本プロレスという次の戦場。
新日本初参戦の舞台となったG1クライマックスは、記憶に新しい人も多いでしょう。
当時、SNSやネットの批判は多く、WWE時代から始めたTwitterには多くの誹謗中傷が寄せられメンタル的に一番しんどい時期だったと言います。
ただ、覚悟を決めバレットクラブ入りしてからは批判も気にならなかったというKENTAは、暴言や罵声であってもリングでアクションが起きることに喜びを得て手応えを感じたKENTA。
一方でイギリスで行われた石井智宏とのタイトル挑戦は、途中で記憶が飛び、どうやって勝ったかバックステージで何を話したかも覚えていないとのこと。
コーナーに登ることもままならなかったあの試合。
記憶がなくても闘い続けることができる、プロレスラーの本能たるや…
KENTA『取っちゃったね、NEVERっていうこのベルト。どういうベルトか、あとでしっかり調べて。オレがもうひとランク上に連れて行こうかな。それからもう一つ、取ったついでに言わせてもらうけど、つぎは飯伏の権利証。 つぎは飯伏、オマエだよ』 引用:新日本プロレス |
命を削りながら闘い続けるKENTA。
栄光以上に挫折を味わい、希望を見つけては怪我で絶望を味わい走り続けたレスラー人生。
波瀾万丈な出来事があったからこそ、ここまで愛される選手になったのでしょう。
全てのことが無駄ではなかったものの、分岐点で違う選択ができていたら、また違う道を歩んでいたのかもしれません。
噛めば噛むほど味わい深くなるKENTAというレスラーですが、『足跡』を読めばもっとKENTAを好きになり応援したくなるでしょう。
レスラーという職業の過酷さを知り、もっとプロレスとプロレスラーを好きになれる本が『足跡』です。