柴田勝頼が40歳で引退すると家族に伝えていたことを明かす

柴田勝頼【撮影:Koba】
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023年に柴田勝頼にとって大きな変化があった1年と言えるでしょう。

LA道場で若手を指導していた柴田ですが、道場機能はなくなりアカデミーとして運営していくことに軌道修正されてしまいました。

2月に出演した闘魂ショッピングでは、モヤモヤしていたことを告白するも、配信内で新日本プロレスとの契約書にサイン。

自分の道を探すと宣言していました。

 

その結果、試合へ出場することを重要視した柴田は、ROHを主戦場に活躍。

1年間を通して充実した年となったのではないでしょうか。

 

一方、Number WEBで実現した天龍源一郎との対談では、初めて公開したただろう知られざる真実を赤裸々に語っています。

柴田『年前のG1最終日(21年10月21日、日本武道館)にエキシビションで復帰して、翌年の1.4東京ドームで(キャッチレスリングルールで)正式な復帰戦をやりましたね』

天龍『じゃあ、もう完全復活なの?』

柴田『そこが難しいところで、新日本ではなかなか試合をさせてもらえないんですよも、アメリカで自分が取ってきた試合はしていいっていうことで、自分個人でAEWとかと直接交渉して試合をやってますね

(中略)

天龍『くも膜下出血の後遺症みたいなものはないの?』

柴田『ありますね。手術後、視界が狭くなって右半分がまったく見えなかったんですよ。いまも完全には治ってなくて、右下の4分の1は見えないんですけど』

天龍『俺と一緒だな。俺の場合は頸椎のケガで首を横に動かせないから見えないんだけどね。でも、柴田くんの場合は目の神経自体の問題なのか』

柴田『医者には「これ以上は治らない」って言われたんですけど、なんとか治したくて自分でいろんな治療をしてくれる人を探して。競走馬のケガを電気を流して治す治療法が効果があるというのを人伝てに聞いたんで、訪ねて行ったんです。頭に電気を流す装置を巻いて、治療はすごく痛いんですけど、見えるようになるならなんでもいいやと思って』

天龍『電気ショックだね』

柴田『それを続けることで、最初は右側がまったく見えなかったのが4分の3見えるまで回復したんですけど。もうこれ以上続けるとストレスのほうがすごくて』

引用:Number WEB

 

ROHでの試合は自分で交渉していたと語った柴田。

新日本の所属選手でありながら毎試合他団体と交渉し、試合に出場していたことになります。

そして、急性硬膜下血腫の影響で現在も右側の視界の1/4は見えないと語りました。

怪我した当初は右半分が全く見えなかったという事実は驚きです。

ありきたりな表現になってしまいますが、想像を絶する5年間だったと言えます。

 

さらに、インタビューではオカダとのIWGP戦前に引退することを決めていたと明かしました。

柴田『自分はオカダ戦でケガをしてなかったら、逆にもう辞めていたんじゃないかとも思うんですよあのとき37歳だったんですけど、「あと3年もつかな……」って、家族には言ってたんです「40になったら辞める。もう無理かもしれない」って

天龍『当時は試合数も多かっただろうからね。新日本はコキ使うから(笑)』

柴田『そうなんですよ! 自分が言いたい事を天龍さんが全部代弁してくれるので感謝しかありません! ありがとうございます(笑)。当時はコンディションもあまり良くなかったので、大ケガをしたことで逆に選手生命が延びた気がします。アメリカに行っていろんな意味で視野も広がったので。これから自分の選手生命を大事に使いたいと思います』

引用:Number WEB

 

あのオカダ戦は満身創痍な状態で臨んでいたことを明かした柴田。

結果的にあの怪我がなけらばもう引退していたかと思うと、ある意味柴田のレスラー人生を延命された試合とも言えます。

柴田のレスラー人生があとどの位か分かりませんが、個人的にはIWGP挑戦、そして初戴冠を見てみたいです。

柴田がやり残していることの1つと言えるでしょう。

もし実現したなら、初防衛の相手はKENTAを希望します。